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​マサキチトセさんのお話

■司会より

みなさん、本日は寒い中お越しいただきましてありがとうございます。レインボーなごや主催シンポジウム「LGBTの夢と現実」を始めさせていただきます。司会を務めます、レインボーなごやの嵐美恵子と申します。よろしくおねがいいたします。

 

本日のシンポジウムについて簡単にご説明をいたします。近年、性的少数者はLGBTとして各種マスメディアでも取り上げられるようになりました。しかし他方、今年巻き起こった杉田水脈衆議院議員の新潮45における問題発言に代表されるように、LGBTに対する意識的なバッシング、および、当事者間の分断、というようなことも見受けられるようになってきています。こうした状況を私たちはどのように捉え、行動していけばいいのか。そういうことを考えるシンポジウムにしたいと思っています。

 

終了は午後4:45を予定しております。その後、午後5時より、この会場を出発しまして、名古屋セクマイの聖地・池田公園まで30分程度のミニパレードを行う予定でございます。こちらは参加無料ですので、ぜひ参加してください。

 

それでは早速、パネラーのマサキチトセさんのご紹介をしたのちに、ご本人にご講演いただきたいと思っております。マサキチトセさん、1985年5月26日生まれ、栃木県足利市出身。本日は朝早くから群馬県の館林の方から、わざわざ、お越しいただきました。ジェンダーセクシュアリティを中心に執筆や講演など評論活動をされているYouTuberの方でございます。YouTubeでは、「クィア英会話」というチャンネルをやっておられます。趣味はイラスト・写真・映像・音楽制作。その他、スペアリブのお店「FAT CATS」という店もやられている多彩な活動を繰り広げられているマサキさん、本日の講演題目は「LGBTの中の多様性と連帯」です。皆さま、レジュメがお手元にあると思いますので、是非、ご覧になりながら、マサキさんの講演をお楽しみください。よろしくお願いいたします。

◆はじめに

マサキチトセと申します今日はよろしくお願いします。

もう皆様おそらく活動、LGBT運動とかにご関心があったりとかすでに活動されてたりとかということで、もちろんご存知とは思うんですが、夢と現実?現実とか今後とか、そういう感じのテーマなので、ちょっとだけいま、どんな感じなのかなぁっていうのを、整理してみたいなと思うんですけど、まあ単純に、さきほど司会の嵐さんがおっしゃったように、「LGBT」という言葉を冠して、乗せての、メディアだったりとか、団体・個人の、活動するなり、ビジネスをするなりとか、行政のイベントだったりとか、あるいは条例も含めて、あるいはポリシー的なものにせよ、あとは企業とかが、LGBTという言葉を掲げていろいろ、たくさんやるようになりましたよね。で、そういったかたちでこう、みんなが手弁当でやってるような自分たちの持ち出しでやってるようなすごく小さい運動ではなくて、大規模に、行政を絡めてとか企業を絡めてとか、すごく大きな規模のものが増えてきてます。それは言ったらば多分LGBT運動の主流というもの?ま本来何が主流かってのはちょっとおいといて、これから主流の運動として、見慣れていくであろう、あの、運動の集合体というか、そう言った傾向のあるものっていうのが醸成されつつある、というふうに感じています。

こう、なんだろ、言ったらダイバーシティ系みたいな?感じですね。そういったものがあります。それとはまた、別の動きとして、運動、LGBT運動とか活動とかいうものが、生活実感からは乖離してるというふうに解釈するような人たちってのも、インターネットの普及とかで、たくさん声が見えてくるようになりました。LGBTの当事者の中で、いろんな意見が出てくる、もちろん当然のことなんですけども、それを、ちょっと、杉田水脈の話があったりとか、あとは、お茶の水女子大のトランス女性の入学の問題があったりとか、今年は、結構、激しく意見が行き交ったなぁっていうふうに感じてるんですね。

なので、どういう、意見の違いが出てきただとか、どういうふうに、その意見の違いを解釈しようかとか、あるいはどういうふうにそれを乗り越えていけるだろうかっていうのを、まあ、考えて、みなさんと一緒にシェアして、今後の課題として、一緒に考えていきたいなと思うんですけど。一つに、さっき言ったダイバーシティ系みたいなのがあったとして、もう一つに、やっぱりこう穏健派というか、現状の社会規範的なものにあまり手を加えずに、これはちょっと生活がしやすくなるかも、っていうことを繰り返していこうとする方向性ってのがありますよね。例えば、100あるうちの99現状維持のままでも1変えるだけで少しよくなるからそうしていきましょうという、漸進的というんですか、あんまりガラッとした変更を求めない考え方。まあとりあえず、そのような今の、主流が形成されている、企業とか行政とか絡んでくるような方向性と、あまりおおっぴらに、がっつり活動しないほうがいいんじゃないの?っていうような考え方が、どんどん出てきてるという、この状況をちょっと考えながら、進めていきたいなと思うんです。

 

 

◆ネット上の動き

なんでこの話をしたいかっていうと、杉田水脈の話もそうですけど、杉田水脈の発言自体、もちろんいろんな批判があってしかるべき内容でしたし、私もYouTubeやってるので、その中でいかにその論理性がね、杉田さんの話の内容がいかにおかしいのかってことを説明した動画なんかを出したりしたんですけど、それよりも、それを巡っての、あと女子大の入学のこととかも巡っての、当事者の、インターネット上でのやりとりとかっていうのが、すごい気になったというか。ダイバーシティ系っていうのはもちろん、あの、目に入ってくるじゃないですか(笑)ボーッとしてても結構、ツイッターやってたりとかフェイスブックなんかやってたりとか、人と繋がってると。なんですけど、今まで、多分、ダイバーシティ系に親和的な人?なんかちょっとあの、近しい人、も、まそうじゃない人も、これまで、意見を書いたりとかいろんなところでこういうコミュニティとかに参加してきたりしてきた人、が、私も含めて、おそらくそんなに意識してなかった層として、さっきのその、現状維持?をできるだけ志向するような声ってのが出てきたのかなと思って。

 

それこそ「放っておいてほしい」とか。LGBTっていう名前で運動をするっていうことはその、当事者にとって鬱陶しい、邪魔だとか、迷惑だとかっていう、考えが出てきたりとか。さらには「差別されてないですよ」みたいな。ゲイ雑誌の元編集長の方が、ツイッターでもうすごい書いてて、結構広まったんですけど、ゲイ男性はもう差別なんかされてないよねっておっしゃってたんですね。まそれはその本人の実感として、されてないっていうんだったらほんとに良いことっていうか、嫌な思いをしないで済んで生きてきたこと、もしくは乗り越えてというか気にしないようになれたとか、っていうのは良いことかもしれないんですけど、運動とかに携わる人とは現状認識がだいぶ違いますよね。

 

あとは、保守系というか、自民党の中の人たちだったりとか、それを支持する人たちだったりとか、あるいは日本会議とかっていう保守を引っ張ってるような流れの人たちとの、穏やかな対話が普通ではないんですか、っていうふうに言ってくる意見なんかも出てます。あとは、GIDの対応だけが必要であって、LGBTQとか、ほかのことについては、別に今のままでいいんじゃないですか、っていう、さっきのその、放っておいてほしいとか差別なんかされてないの組み合わせというか。「GIDはしょうがないよね」みたいな扱い、って言ってくる人がいたりとか。

あるいは、お茶の水女子大のことに関して言えば、トランスジェンダーの、あの、厳密にはトランスジェンダー女性だけに関わる話ではなくトランスジェンダー男性に関してもお茶の水(女子大)は多分オープンな姿勢なのであれなんですけど、保守的な意見を言う人は、「LGBTに配慮することがシスジェンダー女性にとっての負担になる」と。結局、その人たちが言うには、女性のスペースにトランス女性が入ってくる、ま、女性のスペースにって言う時点でおかしいんですけど——女性のスペースなんだからトランス女性も本当はいるスペース、だけど——本人たち曰く、女性だけのスペースなのにトランス女性が入ってくるなんて、っていう、「危険じゃないか」とか、「見分けがつかないじゃないか」とか、「女装で犯罪をするとかいうのが見分けがつかないじゃないか」っていう。見分けがつかないって言ったらどのマイノリティも排除する理由ができちゃうので、ほんとによくない話と思うんですけど、そういう意見が出てきたりとか。

 

あとは、もしかしたら活動されてる方なんかは個人的に聞いたことあるかもしれないけど、「代表者ヅラするな」とかいう表現もあります。これは、後々話しますけど、一理ある話ではありますね。あとは、今は戸籍変更をするときにSRSが必要ですよね。その要件がない国ももちろんあって、日本は今ありますけれど、それがないほうがいいと言っている人たちがいるわけですね、結局手術っていうのはリスクもあることだしお金もかかることだし、自分の戸籍を自分の生活上の性別に合わせることができたらば生活の質が上がったりするので、手術なしでも戸籍変更ができるほうが良いという考え方があるんですけれども——アルゼンチンなんかは完全に手術なしでできるんですけど——それについて、いや、要件は必要なんじゃないかという意見も出てきている、当事者の方から。なんと言ったらいいんだろうな、ざっくり言っちゃえば、体を変えないのに女ですとか男ですとか変だろ、ぐらいのことを中には言う人もいたりしてます。

あとはそういう系の声として最近すごく目にするようになったのが、ビジネスとしての活動を批判する視点。

こうやって、活動というものに対して、当事者の声がばーっとすごく出てきた年だなぁと思うんですね、今年は。じゃあ、長く活動続けてきた人や見てきた人なんかはよくわかってると思うんですけど、当事者による運動批判ってすごく重要なことじゃないですか。それこそ東京レズビアン&ゲイパレードって名前が、批判によってそういった指摘を受けることによって、レインボーとか——また結局違うところが始めちゃってまた違う名前になっちゃってるんですけど——今やってるやつの前のやつの名称が変わったことがあったりとか、

 

あとはもう、ここ何年かは、その、さっき言ったダイバーシティ系の動きがすごく活発になっているので、当事者による批判——さっき言ったような、放っておいてほしいとかって現状維持系じゃなくて——ガンガン活動してる系の人たちからも当事者からの批判ってすごくあったってのがあるじゃないですか、渋谷の条例がグッドデザインを受賞したときに、受賞対象があるLGBT関連の団体だったことでバッと(批判が)広がって、で、受賞対象が渋谷区にいきなりすり替わって、でまたバッて炎上したらば、なんか、受賞しないことになったとかっていう、なんかちょっとバタバタあったんですけども、渋谷の条例って誰の所有物かよくわからないです(笑)少なくともその団体の所有物ではないわけですよね。そういうのとか、高額のセミナーをやってLGBTの講師になりましょうとか言って、いろんな、自己表現をしたい人とかからお金をいっぱいとってセミナーを行う人とか、これも話題になりました。

あとは、ちょっと有名なトランス男性の活動家が「人権を守るにあたってマーケットから始まるものもあるよね、マーケットとして認知されて始まる人権ってのもあるよね」って発言したことについて、人権を中心に据えて考えてる活動している活動家からは「その発言はどんな(いかがな)ものか」って批判がやっぱりあったりしました。あとLGBT検定っていうのもありましたよね(会場笑)何ができるようになるんだかわかんないですけど、結構(受験料が)高めの設定で、あったですね、あとは渋谷のトイレマークありましたね。なんか男性女性半分のマークみたいなやつ、スカート履いたやつでレインボー、みたいなやつがあって。そもそもLGBTトイレみたいなのが最近バーッと広がっているじゃないですか、行政なんかも関わったりして。LGBTトイレって、・・・入れないよね〜、って思って(笑)。どういう、誰が入るんだろう〜って思って。ま、そこじゃなきゃ入れない、ここがあることで入れる!って思う人ももちろんゼロじゃないと思うし、否定するわけじゃないです、もちろん、だけど・・・なんでそれが中心的なやり方になってるのかな、ってのはちょっと不思議なものがありますよね。

 

あと、2016年。「Work with Pride」っていう、労働運動系とは関係ないですけど、就活系、みたいなLGBTイベントがあって、そこで展示される写真に、おそらく、シスジェンダーなんじゃないかと思うんですけど、スーツを着た男性がバーって並んでて、The Gay Elite、ってかいてあったんですよね(会場笑)。それが展示される予定だったらしいんですけど、まあ、批判を受けてさすがに文字は消したらしいんですよ。でなんか、そういう方向でおしてくのかい?って感じはするじゃないですか。あとは、やっぱりそのWork with Prideっていうイベントで、LGBTが働きやすい職場、ゴールド賞って、電通が受賞してるんですね。(会場より「はぁ?」)そのちょっと前に、新入社員の女性が過労で自殺して、ってあったじゃないですか…。あ、LGBT、働きやすくてもー、・・・・(会場苦笑)すごいなー・・・、って感じの、いやそれもだいぶ、批判を受けましたね、ご存知の方いらっしゃると思うんですけど。そうやって結構、当事者からの批判ってこれまでもずっとあったもので、だから「批判されちゃったからやりたくないもー」みたいになるものでもないじゃないですか。だし、批判したら悪いからしないというものでもないし、できるだけこう、穏やかにね、お互いにね、やって、たまにちょっとわちゃわちゃしちゃったりするけど、みたいな感じでやってきたと思うんですけど。

◆どう考えるか

フェミニズムなんかもそういう歴史ですよね。しばらくの間ずーっと、いろんな、例えば白人女性のフェミニズムから始まって、ま、始まったわけじゃないけれども、主流になったのがそれで、いろんなマイノリティの女性とかがこう、批判を繰り返すことによって発展してきた歴史があるので、クィアとかLGBTQの運動においても、当然、そういうのはありました。だから基本的には、どんな声も、当事者の声の多様性が可視化されることは基本的にはいいことだと思うんですね。それがちょっと変なことでも(笑)ある程度言える空気があるってことは重要で、そのとき誰もが同意、一瞬で「あ、そうだよね」とならないことだったとしても、後から考えればあの時のツッコミって必要だったよねってことも振り返るとあったりしますので、必ずしもなんか変なこと言ってる、文句言ってるよあいつ、みたいな扱いをしないで、できるだけオープンでやれるのが一番本当はいいんだろうなっていうのは、あります。

 

ただ本当に、今年の動きを見てると、批判のレベルを超えて、人格否定だったりとか、とても悪意を感じるものだったりとか、あるいはそれこそ今でもまさに今日でも起きてる、ずっとここ何ヶ月も続いてる、トランス女性に対してのヘイト的な発言っていうのが続いてるんですね。闘ってる人がすごくいて、私はそれに参加できてない。できていないっていうか、私はトランス女性として生きてないので、どういうふうに参加するべきなのか考えているうちになかなか何もできなくなっていて、今すごくどうしようってとこなんですけど。あの・・・なんか・・・すごいんですよ。トランス女性のことを「Y染色体」って言ったりとか、(会場絶句)なんだろう・・・あの・・・言える!?そういうこと!?って思って。例えば同じ職場にいたとして、その人に同じ悪口言える?って思って。そんな悪意って日常生活ではなかなかぶつけないのに、すごいんですよ。否定して、いなくなってしまえばいいって思っているのか、っていうような攻撃をすごくしていて、あとはその、ちょっとした言葉、短い言葉でも、全体の中でその部分だけを抜き出して、これをこういうふうに言ったって言って、騒ぎ立てて、批判とか。粘着も多いですね。あ、終わらないんだこの炎上、って思うものがたまにあります。おそらく少人数が続けてやってることなんで、もうなんか、無視しとけばいいよって意見もあると思うんですけど、やられてる本人はね、結構厳しい状況があるんじゃないかなって。

最近の「放っておいてほしい」「差別じゃないんじゃないか」「保守との対話が大事だよ」とかって、そういうこと言う人達のあいだで、すごくお互いにこう——どの会話でもそうですけど——あの、そうだよね、って、いいねとかつけたりするじゃないですか。ただやっぱり、相互に矛盾がある場合もある。だって、差別されてないって言ってる人と、保守との対話が必要だって言ってる人がいたら、「差別されてないならなんで保守との対話が必要なの?」って話になっちゃうじゃないですか。とか、代表者ヅラするなっていうのも、やっぱり、その、なんだ、自分、うーんここどうなんだろうな、考えながら言ってるからわからないけれど、どの界隈も見解を統一しなければいけないというわけじゃないから別にいいんですけども、どう反論されても、どういう新しい情報が提供されても、「じゃあこれはどうなんですか?」(と反論してくる)みたいな、そういうのってけっこう出てきたりする。ネットでなんか書いたことある人だったらほとんどみんな経験あると思うんですけど、あの、そういうことも起きてて、それは、別にこういうこと言う人だけの問題じゃないですけどね。ただすごく、そう言うのが目立った一年だったなって、思うんです。

 

ただ、でもこれ、主流のダイバーシティ系的なものが形成されつつある中、そのダイバーシティ側はそっち側で、ちゃんとできてる?ってとこもあったりするんですよね。攻撃性だったりとか、嫌味だったりとか、徒党を組んだりとか、もっと単純なことでも、意見の違う人に対してでも持つべき敬意とかね、じゃああるかな、っていうと、例えば、批判をすごく受けた時に「それに対しての釈明をしました」って書いた文章が有料だったりとかして、「お金払わないと読めないんかい!」ってのがあったんですよ(笑)。それ誠実なのかしら?みたいな、あったりとか。

あとやっぱり、叩く、みたいな、炎上みたいなのって、私もそうですけど乗っちゃいがちなので。批判はされるべきなんですよ、もちろん。だけど、杉田水脈をババアって呼ぶとかね。そこまで言ったらアウトじゃないですかどう考えたって。(会場同意)そういうなんかこう、ね。みんなでボーン(炎上の意)!イエーイ!みたいな批判の仕方が、やっぱりどっちを取っても人間なので、やっぱあるんじゃないかなってのがすごい、思ってて、なんかこう、・・・そういう、・・・発言とか言葉を慎重になることも大事だけど、これごめんなさい(レジュメに)並べて書いちゃったんだけど、「論理的一貫性・相手への敬意・発言の慎重さが欠如していないだろうか双方」って書いたんですけど、ま論理的に一貫してろ絶対に常に、ってわけにもいかないし発言も不用意にみんなしちゃうと思うんで、同列じゃないかもしんないですね。とりあえず、相手への敬意を持つことってすごい大事だなって、最近特に思うのはなんだろ、年取ったのかなって思うんだけど(笑)。

 

 

◆LGBTの連帯?

 

でこうやっていろんな何てのかな、いろんな声があって、活動に関わってる人たちとか、家族が活動してるとか友達がしてるとか親がしてるとかっていう、結構疲弊もする。「代表者ヅラするな」とか、「LGBTって言って、Tを混ぜんなよTに便乗するなよ」って言葉もあったりしますよね。でもそういう批判も、全然わかんない話じゃないんですよ。政治的にね、あの、T、トランスジェンダー、ってかGIDに関しては制度ができてて、でそれがどんなに不備があってもまあ、自分たちの課題については進んでいる、っていう解釈をする人たちがいっぱいいて、それで救われた人たちも実際いっぱいいるので、それに便乗するなみたいな話もあったりするんですけど。

でも、私たち、ここでもそうですけどLGBTとか、あとは普段、LGBTQとかLGBTQ+とかLGBTQIAPKとか、やってる人たちがいると思うんですけど、なんでそんななんかもう、その冠でね、やるのかっつったら、あの、なんだろうな、歴史上、この運動が生まれてきた背景もそうですけど、連帯しましょう、っていう、違いはあるけれど連帯しましょう、っていう意志の表れじゃないですか。LGBTQとかLGBTQ+とか言葉入れるのって。で、実際に、さっきいったそのダイバーシティ系の方で、「えー、同性愛の話しかしないのによくLGBTって名前使いますね」って人いっぱいいるじゃないですか。(笑)LGBTのイベントだと思って行ったら「全然トランスの話しないんかい!」とか、「もう全部ゲイか!」みたいな。「4人並んで全部ゲイか!」みたいな。「よく集めたね」みたいな。(会場笑)そういうの見るとやっぱり何かこう、ん?っと思うんです。連帯の意志を表すものだと思うんですよね、さっき言ったLGBTとか。それなのに、うーん。入れるんだったらやれ、だし、やんねーんだったら入れんなって話じゃないですか。

あの、”I”ってあるじゃないですか、インターセックスって呼ばれる、性分化疾患、医学的には。それを入れるか入れないかの問題って結構話題になることがあって。あの、性分化疾患の場合は、典型的な外性器とか内性器とか染色体の状況ってのがずれてる、何か一カ所ずれてるとか、複数ずれてるとかってことがあるんですけど、そういう人たちは——もちろんご存知の方もいらっしゃると思うんですけど——そういう当事者がいたとして、ここに当事者を集めたとして、こっちにそうじゃない人を集めたとして、この中のトランスジェンダーとか、レズビアンとかゲイとかバイセクシュアルとかクィアとかの割合って多分変わんない。身体の状況の違いなので。もちろんインターセックスでトランスジェンダーの人もいますよ、そりゃインターセックスじゃなくてトランスジェンダーの人もいるようにね。って話なんですけど、それを、LGBTに入れる。たまに入れるんですよ、LGBT団体が。メンバーに(インターセックスの当事者が)いないのに。で、ろくによく分かってなくて課題もはっきりしてなくて活動の中にそれに関することもなかったりするのに、名前を入れちゃったりする、っていうのがあって。性分化疾患の人たちがほとんど共通して闘ってきた問題っていうのは、同意可能な年齢になる前にされる不必要な手術とか、「これじゃ男の子として可哀想だからこうしてあげよう」とか、「これじゃ切っちゃった方が早いから女の子にしちゃいましょう」とかっていう、もう本人の同意の前にもう、生まれたばっかりとかの何歳とかでやるんですけど、それが、人権侵害だっていうことと、あと、医学教育のサンプルになること。それこそ研修医みたいなのがバーッと並んで自分の性器とかを見たりする。メディカルディスプレイっていうんですけど。あとは自分の状況を写真に撮られて、それこそここ(目の位置)にね、昔のエロ本みたいにここに素人ものみたいな感じでここに、黒いこういうの入れられて、写真撮られてそれがサンプルとして医学の教育に使われたりするんです。それって、見る見られるの権力の関係の問題もあるじゃないですか。誰が見る側で誰が見られる側なのか。目閉ざされちゃってて。ま、(目を)出したいっていう人がいるかどうかはまた別の問題ですけど…。その二つが、インターセックスの、あるいは性分化疾患の人たちが主張してきた課題だと、いう中で、LGBTとどういうふうに一緒に闘えるのかって、結構、かなりズレがあって。もちろん、是非一緒にやりたいっていう当事者もいて、一緒にやるべきだっていう考えの人もいて、一緒にやるべきだからやってますって団体もあるとは思うんですけど、あの、安易に入れていいものではない。入れるからには連帯をするっていう覚悟がないといけないんじゃないかなっていう。

もっと言っちゃうと最近LGBTの男子学生がとかっていう、・・・なんか複雑な背景をお持ちな・・・これ、そんなこと(「LGBTの男子学生」というケースは)ないんじゃない?って言ったら、知り合いに、過去も今もとかって色々考えたらありえるかもね、ってあーまあ確かにそうだな、レズビアンでゲイでバイセクシュアルでトランスジェンダーで、って、今全部、は難しいかもしれないけど、あ、そうだったこともあったかもしれないよね、と思ったんで、それは撤回したんですけど。そういうことじゃないじゃないですか、おそらくメディアとかが言ってることってのは。でもこれ、当事者たちも言っちゃいません?「あ〜あの人、LGBTの人だから」みたいな。「テレビに出てるLGBTの教授いるじゃん」とか。当事者も言っちゃったりするんですよね結構。それ、やってたら——何が言いたいかっていうと、なんでこういう話するかっていうと、色々腐される理由、腐されるっていうかなんていうか、批判というか非難というか、「まったく活動家は」って言われるっていう、理由ってやっぱあったよね。っていう話がしたい。

特にここ数年のいろんな炎上が起きてるあれを見て活動に触れてる人からしたら、「なんか金のにおいがするな」とか、「自分が前に出たいからやってんじゃないの」とか、あの、なんだ、本当に、「トランスジェンダーの人の話ちゃんといっぱい聞いて考えたそれ!?」みたいなトイレのマークだったりとか、結構、あるじゃないですか。悪意のある活動家批判とかはキツいけど、ダイバーシティ系のやり方は批判されなくてはならないことが確かにいっぱいあって、不信感を持たれてもしょうがないよねみたいな、話を今日はちょっと思ってるんですけど。

それこそその、あんまり気にしちゃったら誰も何もできなくなっちゃうので、例えば誰が代表者ヅラするのかって問題なんですけど、誰も代表しない世界よりは誰か代表した世界の方がいいはず。なので、それをどういうふうに良くしていくかっていう。

 

代表者ヅラすんな、ってのは正直、受け入れられない批判じゃないですか、あの、常に例えば、LGBTの考えを、常に、ゲイ男性。常に、ゲイ男性。もう。どの行政行ってもゲイ男性講師。で、どの大使館に呼ばれるやつも全部ゲイ男性。それは、代表者ヅラすんな、って話になっちゃうんだけど、ある程度の、なんていうの、多様性が確保されているんであれば、代表者ヅラすんなっていうのは、じゃあ誰も代表者にならない運動でいいんですか、っていう話。まあ運動がいらないっていう人だったらしょうがないんでしょうけど。

ちょっと脱線しちゃうかもしれないんですけど、私あるメディアに対談してくださいって依頼を受けたんですね。対談の相手はこの人ですって言われて、対談の内容、テーマはこれですって言われて、なんだろうなあ、それ、私出ちゃダメじゃない?って思ったんですよ。私が出ることで、もっと適任の人の出る、それこそ報酬をもらう機会を奪うことになるじゃないですか。例えば、女性の、シスジェンダーの、レズビアンの話とか、トランスジェンダー男性の話とかを、私はお呼ばれして、(対談を)やっていいのかっていう。でも、お呼ばれしちゃうと・・・基本的には受ける姿勢でいくんですけど、最近では断る勇気を持つようにしてるんですよ。で、断っちゃったんです。「ごめんなさいそれは私適任でないと思います、もっとふさわしい人がいると思いますので」って断ったら、なんと、シスジェンダーヘテロセクシュアル男性に仕事が行ってしまって(笑)。「お前かーい!」と思って、でも別にその人悪くないよね、仕事来たから受けただけだから(会場笑)だけど、もうもう、こっち(シスジェンダー女性とかレズビアンとかトランスジェンダー男性の方に)方面の仕事なのにお前受けるんだ!?みたいな、もう、「仕事出したやつも汲めよ、私の意図!」と思って。「そっちに回す、へえー?」と思って。

メディアに出る側になってくると、メディアとの共犯関係というか、向こうの責任もあるしこっちの責任もある、というふうになって来て、誰がなんの話をするにしても、それこそ代表者ヅラせざるを得ないわけだから、話をするときには。代表者ヅラをするんであれば代表者ヅラしても問題が少ない状況、できるだけその状況を作らなければいけない、と思うんですね。

 

 

◆複合差別とインターセクショナリティ

 

でもう一個。そのLGBTっていう冠でなんかやって、しかもそのメディアとかで自分の顔が出たり名前が出たりしてくる中で、なんかこう、自分が語れないことっていっぱいあるなって、ご経験のある方思うと思うんですけど、それこそここ(資料)に書いてある社会階層、障害とかジェンダー、民族、職業とかね、見回せば周りにあるんですよ。だけど、想定されてないっていうか、なんかの時には忘れ去られちゃうものごとってすごくあって、それってまあ、LGBTだけじゃなくてどこでもマイノリティってそうだと思うんですね。じゃあLGBTって冠を被って、被ってっていうか冠してその、ほんと連帯の意志だよって言ったけど、じゃあね、他と、どういうふうに連帯、というか、他のことはどうするのっていう。「LGBTQ『以上』」なのか、って話で。でこれ、以上か以上じゃないかって話じゃないんですよ実際。だって、LGBTQの中にいるから。

すごい尊敬しているフェミニストの人が、「私はいろんな貧困とか移民とかの問題をやってるけどそれは私がフェミニストだからだよ」って。別に、自分が権利とか尊厳とかを重要視したいと思っている女性——もちろんその人はシスジェンダーで女性とかトランスジェンダーで女性とかそんな分け方はしないんで、女性。ね、全部——のことを、その権利とか尊厳とかを大事にしようと思っているから、その中に移民もいるし、その中に障害を持った女性もいるし、だから当然、その人たちの問題は私の問題です、って言ってる人がいて。「おお、そうだ」と思ったんです。

だからさっき言ったダイバーシティ系にしても現状維持系にしても、多分今どちらにも、あまり、こう、中心的に念頭に置かれていないんじゃないかなと思うのが、このインターセクショナリティっていう、複合的な差別の問題。

 

今までしてた話、LGBTの話ばっかりなんですよね。それこそダイバーシティ系はダイバーシティ系でそうですし、現状維持とか穏健な方も例えば「差別なんかされてないよゲイ男性は」みたいに言うわけですよ。でも複合差別って足し算じゃないので、何かと何かの差別があった時にここは掛け算がおきる、って考えてて、例えば貧困でゲイ男性だった場合に、貧困であるつらさとゲイ男性であるつらさ、が、ただ単に足し算されるわけじゃなくて、貧困であることでゲイ男性であることの意味が周りの中で変わってきたりとか、ゲイ男性のコミュニティの中にいることによって貧困であることがより恥ずかしいことだったりとか、隠さないといけないことと思ったりとか、あとはライフスタイル的に、どれだけお金を使うかとかもね、もう、関わってくるので、掛け算、だと思うんですねそういう複合差別って。

インターセクショナルなこう、インターセクションって交差点って意味なんですけど。なので、どっちも多分その視点が今一番、もぐっちゃってる?見えなくなっちゃってるような感じがしてます。で、このインターセクショナリティ、「全部網羅できないよ!」ってあるじゃないですか、自分が運動する時に。もう「時間も力も金もねーから全部は無理だよ!」ってなるんですけど、やっぱり、出会ってきたもの?みんな優先順位というか自分が大事にしてるものがあると思うので、そんな事前になんか網羅して運動する必要ないと思うんですけど、できるだけ、こう自分が大事にしてるもの、身の回り見渡せばすごいいろんな人がいると思うんですね。

 

あんまりこう、列挙とかしてカタログみたいに言いたくないんですけど、例えば私は——これは私の個人的な考えですよ、別にみなさんに同意してもらいたいとかじゃなくて…——同性婚は実は反対なんですね。で戸籍制度も反対なんです。であと刑務所ってものも反対なんです。えと、死刑も反対です。とかまあ他にも色々あるんですけど、まあ、反対ばっかりでね、なんか性格悪い感じですけど。そういう背景にあるもの、は、家族、とか親族、とか、すごく親しい知ってる知人とか友人とか、の中に、それこそ、なんだろうな、あんまり、あんまり、(レジュメに)書いたはいいけどあんまりリストアップしたくないんですけど——なんか、あたかもなんか、こういう友達がいるから差別じゃないよ、みたいな、なんか、そういう感じになりそうで嫌なんですけど——バーっと言っちゃうとね?恥を忍んで。ワーキングマザー、だったりとかシングルマザーだったりとか、元セックスワーカーだったりとか元長期受刑者だったりとか、あとは愛人みたいなポジションだったりとか、外国人労働者だったりとか、在日コリアン、難民、ガンサバイバー、性暴力サバイバー、摂食障害、あとはあの、なんていうの、子供を育てる施設育ち、統合失調症に罹患してる人、全盲の人もいます、聾唖の人もいます、脳性麻痺の人もいます。私の身の回りにいる。今までいた。今もいる人ももちろんいますけど。自分が大切な人たちが、こういう状況なんですね。もうどこにマジョリティっているんだろうっていうぐらい。そういう状況で、さっき言ったように、私が全部のことを同時にできるわけじゃないし、ちゃんと理解できてるわけじゃないし——自分が該当してるものもありますよこの中に。けど、該当してないものもあるし該当してたってわかんないこともあるし、人のことなんて。だから、ちゃんと理解してるとも言えないし、自分の何かこの、称号みたいにして言いたいわけじゃないんですけど、でもこういう人たちのこと私は、思い浮かぶことがあるんですね。何か運動というか、参加したりとか、なにかものを書いたりとか、話したりとかする時に。

でそういったことの結論として、同性婚反対、とか、戸籍反対、とかっていう、自分の立場ができている、わけなんですよ。で、もちろんみなさんそれぞれに出会ってきた人たちがあって、大切にしたい人が違って、だから、なんだろう、みんな違う結論にね、至ることになるでしょうけれども、でも、私たちはコミュニティなので、ここで、まあここ(会場)じゃなくてもね、こういうコミュニティのネットワークを通して、語り合ったりとかすることで、「あーなるほどねそういうこともあるのか」とか、あるいは、自分が、いろんなものにオープンであろうと思えば思うほど、いろんな人との出会いが増えるじゃないですか。それこそマイノリティって、見ないで過ごそうと思えば見ないで済んじゃうものが多い。自分の家の目の前にモスクあったんですよ。海外に行ってたんですけどしばらく、(日本に)帰ってきて前通ったら「モスク(イスラム教の礼拝堂)じゃないこれ?」と思って。セブンの向かい側にモスクあるんですよ。でなんか日曜日かな、に集まってなんかやってるんですけど、「えー全然知らなかったー」って。生まれ故郷じゃないのでそんなにそこに住んでる期間ってなかったんですけど、でも3、4年ぐらいは一回そこに住んでてそのあと海外行って戻ってきたときに気がついたんですよ。古い感じで前からある感じで、「…知らなぁい…で済まぁせられるぅー…特権―……!?!?」って思って(笑)なるほどねーって思って。

だからやっぱりその、いろんな、自分が大切にしてる人たちの中にも気がついてないものいっぱいあるのでなんかこう自分が、なんていうの、…ね、なんかアライみたいな話になっちゃう?(笑)あの、アライじゃなくてね、あの、いろんなものにオープンであろうと思えばやっぱりそういうものが見えてきたりとか、話の中で伝えてもらうことがあったりとか。ま、あんまり良くないかたちでね、人づてに聞いちゃったりとかっていうのもあるかもしれないんだけども、あの、できるだけそういうものに敏感でいたいなって、思いますね。だからインターセクショナルにやっていこう!って言った時に、別になんか理論的な、こう、「え、なんだっけ、ジェンダーと、民族と、障害と、人種と、人種と民族ってなんだっけ違うんだっけ、」ってそんなことをやってるんじゃなくて、自分が今までに出会ってきた人たちのことを大切に思えば、自動的にインターセクショナルな考えが、なんていうの、発現してくる、発現というか、それはずっと、ダーっと大きくなっていくと思うので、そういうのが大事かなっていうふうに思ってます。

◆LGBTという言葉をどう使うか

 

で、最後の方、そのLGBTって言葉がまあぐわーって広がって、あの、今言ったインターセクショナルな感じのスタンスとしてLGBT運動をしていくっていうのとはまた、うーんと、うーん、…べ、別のレベルというかなんというか、そもそもLGBTって言葉を使うことがよいかよくないかみたいな話って結構あると思うんですよ。で、LGBTってここに書いてある通りアイデンティティとしてなんか、「あ、B!」って思う瞬間ってあったりするじゃないですか子供の頃とかに。「あーなるほどねBか!」みたいな、でちょっと「あー、Bじゃなかったわ。」っていう時もあったりするし、何かしら指標があることで、自分がそれにアイデンティティを持った時とか、あとは、ロールモデルがね、先輩、みたいな、先輩っていうか、ああいう人がいるんだったら自分もああいう人になっていきたいとかそういうものが、LGBTという枠があることでやっぱり存在できるっていうのがあって。コミュニティもそうですよね、LGBTって名前出してなんかイベントやったりするから集まってくるわけで、LGBTって名前出さないで、なんか、ね、ひまわり教室、なんてやってたら(当事者は)来ないわけですよ。だから、名前があることはやっぱり重要だし、その、LGBTって、いまは検索時代だから——検索時代なのかなインスタグラム時代なのかな——あの、LGBTって文言が入ってることで、それに関する情報を検索しやすくなる、アクセスしやすくなるってのはすごく重要なことなので、もちろん、メリットはたくさんある。んだけれども、やっぱりLGBTって言葉は、んー、ナショナリスティックになるつもりはないんですけど、ま、アルファベットじゃないですか。で全部英語の言葉の略称ですよね。

日本にもこれまでいろんな言葉があって、それこそ三橋順子さんって方がすごく色々調べてますけど、いろんな名前とかいろんな文化、とかがあって、で、時代の流れと共に、あれ?この人、前だったらこっちのカテゴリーだったはずなのに、今の時代だとこっちのカテゴリーになるんだね、みたいなことがいっぱいおきて、カテゴリーの名前って結構流動的、じゃないですか。それがでも今、ま正直、トランプ大統領とか全然ダメなんですけど私——ダメって別に(性愛的に)いけないとかじゃなくて(笑)、そう、スタンスとしてダメなんですけど——あのオバマさんと、クリントンさん。あの人たちが、結構、「LGBT!」っつってバーンて世界にね、なんかこんな曖昧な言い方でいいのかわからないけど(笑)でもなんかアメリカがリーダーシップをとって!みたいな、こと言い出した時があったんですよ。でなんかうーん、がんばってもらっていいんだけどうーん、なんかちょっとね…、みたいな感じもするじゃないですか。

あの、昔の話で、本人ももう撤回してる話なんですけど、ある活動家の方が、「東京から、ダイバーシティを」みたいなことを言ったことがあったんですね。いや〜おまえ他のとこ知ってんのかいちゃんと!?って感じじゃないですか。すごくいい活動してる団体とか、すごくがんばった政治家とか、地方にいたりするのに、いやいや、おまえんとこ一番進んでると思ってんのかいみたいな。というのってやっぱちょっとあって。あとはその、どうなんだろうななんか、地方と都市もそうなんですけど、階級においても、LGBTってアルファベットじゃないですかって言ったけど、アルファベットの地域だって、地域差とか経済格差とかいっぱいあって、それこそ、あの、例えばアメリカの超田舎の山と山の間に住んでますみたいな人たちで、ゲイではない、けれども、男性と性的な関係を持ちますなんて人はザラにいる。そんなのもう、世界中どこにでもいるからですね。

そういう、名前、が、ついていない?ものに、こう、ぐわああ〜〜って、はいL、はいB、はいT、はいB?T。みたいな、ことをやっていくことが果たして、どんな、あれがあるのかっていうのは、ちょっと、あの、なんていうの、こうLGBT〜〜〜っつって全部をスキャンしていくみたいなのが、正しいとは思えない、ですよ。なので、LGBTっていう言葉をどのように考えていくのかってのも大事なんじゃないかなと。

 

 

◆行政との関わり

でその、もう一個、LGBTって言葉が普及したことによって、ダイバーシティ系の中でね、アライ産業っていうもの——アライって、当事者ではないけれども権利とか尊厳とかの拡大に支援したいって思ってるような応援したいって思ってるような人たちのことアライっていうんですけど、を、対象にしたビジネス——がスタートしてますよね、結構。企業向け研修とかもそうですけど。行政がやるやつもそうだし。結構、多分、これからね、避けられないと思うんですよ、ダイバーシティ系が広がっていくのはね。ま批判をして、それが改善されたりということはあっても、この流れが止まったりとか逆行したりってのはないんですね。どんなに私たちが批判を持っていようが、どんなに私たちが…ね、これ進んでいくのは間違いないんで、その時に不安なのが、その男女共同参画の動きが2000年代初期の頃に、男女共同参画っつって条例が、いろいろ、あの、自治体でぶわーっとできた時に、モデル条例みたいなのがあってそれのほとんどコピーみたいなものができたんですよ各地にバーって——すごい独自なものを作ったとこもあってすごい良かったんですけど、それは後で覆されちゃったりとかして。なんかわけのわかんないハコだけ作って、実際にはそのいろんなことをわかっていないというかなんていうの、知識だけじゃないにしても考え方としてすごい性差別的なことを考えている人ですら、その参画の、えーなんていうんだ、委員会にいたりとか。実際にやってることが、男女共同参画講座「女性の脳、男性の脳」みたいな、そんなのやってたりするんですよね。

そういう、形だけ作って、全部同じにして全部バーってやって、中がずさん。っていうことが、LGBTのことでも起きる可能性があるんじゃないかなってのを私は思っています。行政モデルってのが開発されて、あとえっと、学校教育でLGBTをどうするかって、生産性の話で杉田さんも言ってたと思うんですけど、杉田さんが言ったのは「間違ったことを教えちゃいけない、間違ったこと教えちゃったらどうすんですか」って言ってたんですけど、教育内容って、あんまり画一化されたらいいってものじゃないじゃないですか。数学とかはね、ある程度画一されてないと子供も混乱しちゃうかもしれないけど、必ずしも、あんまり画一化しないであんまりカリキュラム化しないでって思ってるんですけど、まあ(LGBTについても)されるでしょう。で、それが必ずしも悪いことじゃないっていうか、あの、難しいそこはね。

あと行政との関わりを持つこととか、要望書出すとか、議員と関わりを持ってロビイングするとかって、意義もすごく大きいんだけども、でも、行政と企業と、あとは、基金、お金出してるところ、と、NPOとかNGOとかの、この4者の間でお金が、アメリカなんかバンバン動いてるんですね。日本も多分そういう動きになってくと思う。その時に、こう、誰が得してんのかな?ってことを、結構ちゃんと見ないと、危ないような気がしてます。

で、行政が運動に携わることで言うと、この前コラボという若い中高生の女性、女の子の(家出などの)サポートの、バスとかで繁華街に行って、スペースを(提供する)、というやつが、行政と関わることになって、すごく残念なことになってしまった、本人曰くね。行政にすごくコントロールされて監視されて、報告とかもすごいさせられてすごい疲弊しちゃってお金とか別に助成金とかも、あの、コストも大きかった。助成金が入ったとしてもそれよりもコストが大きかった。人を使わないといけないから、報告書作ったりとか。なので、すごく結構ツイッターで悔しがってた。ことがあったんですね。そういうこともやっぱり今後起きうるので、なんかこう、注意して………………………なんかもうね、時間がないからもう、まとめの言葉が思いつかないんだけど。注意していきましょう。終わりです。ありがとうございました。

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